家紋のブログ

家紋あれこれ

会社勤務の頃、業務上どうしても家紋を覚える必要がありました。
現役を離れて数年が経ち、ウォーキング中にふと見上げた蔵の家紋に昔の記憶が甦りました。
お寺や神社、旧家の蔵、商店の看板やのれん、お墓など見て歩いています。
学術的な難しい事は解りません。あくまでも見て楽しむ。
珍しい家紋に出あった時の嬉しさ、そんな価値観を共有出来る方がいれば嬉しく思います。

家紋で遊ぶ(連翹)

世間では桜にばかり注目する季節ですが、同じ季節に野にも街にもどこでも目にする連翹の花です。
植物学的にはありふれた花ですが、家紋学的には特筆な家紋です。
「連翹」紋は上図の四点だけで、藤原公季流の公家が用いた家紋です。
他の花紋のように花を単独で描いた紋はありません。図の「三つ花連翹」はそれぞれ紋から花を取り出し、並べて意匠した私の創った勝手紋です。


連翹の花自体は小さく、花を家紋の様な配置にする事は私の腕では無理なので、花と葉でイメージしてみました。連翹の花を見かけたら、「連翹」紋を思い描いてみて下さい。

家紋四方山話(東山殿紋帳)

今回も続いて東山殿紋帳より器物紋を紹介します。今回は生活具や遊具です。
550年程前に描かれた武家の家紋ですから、紋帳に出て来る図柄は当時の一般庶民の生活とは縁のないものばかりです。


「檜扇」紋は檜を薄くして扇にして、そこに色々な飾りを着けた扇の事です。
これには官位や性別、年令などにより板の枚数や、持ち方置き方などのややこしい作法があったようです。扇としての実用性は無く、身分を表す小道具のようでした。
薄いとはいえ檜の板に房をぶら下げたので扇ぐのでは、重く邪魔で思うように扇げませんよね。
現在でも雛人形が檜扇を持っていて、当時の面影を伝えています。(下図参照)

「輪鼓に手鞠」紋は当時の遊具を意匠しています。ただあまりにも簡略的な図です。
輪鼓とは木を鼓の形に作り、真ん中の細い部分を紐に当てて、転がしたり飛ばしたりして遊んだという事です。手鞠は表面を糸で装飾した鞠の事です。
当時の上の階級の子供達がこれらで遊んだのでしょうね。庶民の子供達は何で遊んでいたのでしょうか。歴史は一部の階級の人達の事だけを主に伝えていますので。(下図参照)

「中開き三本傘」紋は今でいう和傘です。私の子供のころは番傘といい、竹の骨組みに油紙を張った簡素なものでした。子供には重く油の匂いがして好きではありませんでした。当時もこれは実用的なもので、現在の様に軽く色鮮やかな和傘ではなかったでしょうね。
余談ですが「傘」の漢字は誰が考えたのでしょうね。四人も人が入る傘ですから、かなり大きな傘を見て思いついたのかも知れませんね。(笑)


「総角」紋は房ともいいます。大相撲の土俵の上の屋根の四方に房が下がっています。またお寺や神社の幕の中心を絞る装飾にも使われています。その他にも様々な場面に装飾として現在でも用いられています。
古代の子供の髪型を揚巻といい、そこから来ている意匠です。(下図参照)
上図の総角を見て下さい。黒字は逆さまになっていて、赤字で直してあります。
今も昔も間違いは赤色で修正するは変わらないのですね。(笑)

家紋四方山話(東山殿紋帳)

前回に続き東山殿紋帳よりの家紋です。
今回はその中でも器物紋をご案内します。
おおよそ550年前の日本で最初の家紋帳の意匠には当時の暮らしが垣間見ます。
この時代には既に高度の技術が武具などにあった事が紋帳から読み取れます。
ここでは家紋を使用する武家については省略します。


鉸具(かこ)と読みます。これは馬具の鐙(あぶみ)頭部を意匠して、中に雁金を描いた家紋です。一見すると何を表しているか判りません。漁具のようにも見えますね。
当時の鐙です。

轡(くつわ)は馬の口に銜えさせて、手綱と繋ぐ金属の馬具です。
これは「轡」紋では初期の写実的な意匠になっています。
後に丸に十字の部分だけ(下図参照)を意匠したものに変わって行きました。薩摩藩島津家の轡紋が有名です。この意匠は子供の玩具に見えるのは私だけでしょうかね。
当時の轡です。

合子箸(ごうすはし)合子とは蓋の付いた器の事です。
早く言えば、蓋付きのお椀と箸という事です。ただ箸は足利氏の二つ引両紋からではないかと言う説があります。何気ない日常の道具を意匠して家紋にしてしまう処に驚きがあります。


この「釘抜き」は現在の釘抜きとは大分違います。実はこれは釘抜きではなくて、釘を抜いた後の座金なのです。そして当時の釘は四角の楔形をしていましたので、中が四角になっているのです。「九城抜き」くぎぬきと言い、九つの城を抜くという縁起から、昔から武家に好まれた家紋です。
「釘」紋です。

家紋四方山話(東山殿紋帳)

室町幕府八代将軍足利義政の時代の中で、1467年~1470年の間に書かれたという、日本最古の家紋帳です。上図はその冒頭に描かれて家紋です。現存する本は28冊です。
そんな500年前の貴重な本を私が手するわけがありません。これは国立国会図書館デジタルコレクションからダウンロードした資料です。


「二引き両」紋これは足利家を代表する家紋です。まだ家紋が普及していない時代の戦場の陣幕には縦や横の太い線が描かれていました。この線を表していると言われています。
「桐」紋は平安時代には皇室紋でしたが、それを天皇から足利家に下賜されて、足利家でも使うようになったのです。それで源義家の名がここに乗っているのでしょね。


「桔梗」紋は土岐家の祖土岐光衡が戦場で兜に桔梗の花を挿していた事から、土岐家の家紋になったと言われています。美濃の主であった土岐家の「桔梗」紋は時代と共に明智家(明智光秀)や土佐の坂本家(坂本龍馬)と引き継がれて行きました。
坂本家の「組み合い角に桔梗」です。

源義光からから武田家へと移る時代はまだ「松皮菱」紋のようでした。
後に菱紋は「割り菱」が使われようになりました。これは菱形を四つに割った意匠です。
上図の文章にも割菱と書かれていまして、この時代にはまだ「武田菱」とう言葉は出て来ません。「武田菱」という言葉は武田家が滅亡後に使われたという説があります。そして割りの線の太さが違うのです。微妙ですがね。

東山殿紋帳という表題は応仁の乱の時の、東軍側の武家の家紋を描いたという事です。
260の武家が載っています。追々に紹介して行きます。
ちなみに西軍側の紋帳は無いようです。

家紋で遊ぶ(梅)

前回に続き梅で遊んでみました。
梅紋はより実写に近い「向う梅」としました。
写真を撮っていて判ったのですが、枝は「枝梅」の図ようではなく直線的でした。
そして花の向きも一定ではなく、図の様な写真にはなりませんでした。
裏梅ですが、図の検索で見てみましたが、流石に梅の裏側を撮った写真は見つかりませんでした。花の裏を撮るのは私だけですかね。しかし裏梅も思った以上に美しい事が判りました。
家紋では花を「向う」「横見」「裏」と多角的に意匠していますので、色々な花の横や裏も見て下さい。下記は「梅」を代表する紋と「横見梅」です。