家紋のブログ

家紋あれこれ

会社勤務の頃、業務上どうしても家紋を覚える必要がありました。
現役を離れて数年が経ち、ウォーキング中にふと見上げた蔵の家紋に昔の記憶が甦りました。
お寺や神社、旧家の蔵、商店の看板やのれん、お墓など見て歩いています。
学術的な難しい事は解りません。あくまでも見て楽しむ。
珍しい家紋に出あった時の嬉しさ、そんな価値観を共有出来る方がいれば嬉しく思います。

家紋四方山話(江戸古文書)2

前回に続き日光社参についてです。
江戸時代に日光社参は19回行われています。その内16回は1663年四代家綱までで、1843年の家慶までの間の180年間に2回行われただけです。家康公の命日ですから毎年行くのが当り前に思いますが、なぜ行かなかったのか、それは一に財政難が大きな要因です。それに将軍や家臣団の決断力もあったでしょうね。
その間は江戸城内に造った東照宮へ参拝して、お茶を濁していたようです。
家慶の前は1776年家治です。家慶まで67年の間が空きました。これでは家慶の時代に日光社参を経験した人は誰もいなです。残っているのは記録だけ。日本中を巻き込んだてんやわんやの大騒動が想像されますね。


これからは列記されている各大名について書き長くなりますので、時間がありましたら読んで下さい。
錚々たる名です。参謀本部の顔ぶれといったところですかね。
※松平讃岐守(まつだいらさぬきのかみ)
祖の松平本頼は徳川光圀(水戸黄門)の兄で、本来ならば将軍になっていた人でした。
なので高松藩十三万石で「三つ葵」なのでしょう。
※大友豊後守(おおともぶんごのかみ)
祖は戦国時代の九州の雄で大友宗麟です。大友宗麟といえば「大友抱き杏葉」の紋が有名ですが、ここでは「五七の桐」になっています。祖はキリシタン大名で名をはせましたので、
 大友抱き杏葉 キリシタン禁制の徳川幕府では杏葉紋を使うのは憚られたのでしょうね。

※真田信濃守(さなだしなののかみ)
祖は真田信之であの有名な真田幸村の兄です。兄弟で豊臣方と徳川方分かれた話はあまりにも有名ですね。そして松代藩十万石、日光社参では留守居役ナンバー4の地位です。
「真田六文銭」は家紋の知名度ではだんとつです。
※本田越中守(ほんだえっちゅうのかみ)
祖は本多平八郎で戦国時代の徳川四天王の本多忠勝の家系です。ただ本多家は家系が多く各地にいまして、ここに書かれているのは泉藩二万石の本多家です。何処の本多家も共通しているのは「本多立ち葵」の家紋であることです。この紋は「右離れ立ち葵」ともいいます。
※平岡對馬守(ひらおかつしまのかみ)
安房船形藩主となっていますが、これは日光社参の後の事です。この時は御用御側取次という役で、将軍への申し出を取り次ぐ役で、今でいう秘書室長というところですかね。家紋については調べましたが判りませんでしたので、図をみて意匠しました。
なお水戸藩士に暗殺された平岡円四郎とは別人です。
※土井大炊頭利位(どいおおいのかみとしつら)
日本で始めて顕微鏡で雪の結晶を見て図鑑「雪華図説」を創り、雪の殿様と呼ばれていました。その雪の結晶図は今でも古河市の象徴として使われているそうです。
※堀大和守(ほりやまとのかみ)
筆頭家老水野忠邦の右腕として天保の改革で腕を発揮しましたが、忠邦が失脚後は領地を減封され蟄居を命じられています。家紋については一部の資料で「向う八重梅」と書かれていましたが、図では八重は描かれていませんので、「丸に向う梅」としました。
※大岡主膳正(おおおかしゅぜんのかみ)
時代劇でも有名な江戸町奉行大岡越前守の遠戚にあたります。
家紋も劇中に出て来る大岡家の「大岡七宝」と同じです。
※堀田攝津守(ほったせっつのかみ)
図にある堀田備中守と同じ家系なので、家紋も「縦木瓜」ですが意匠が違います。 
  丸に木瓜  通常木瓜紋は横ですが、あえて縦にしたようですね。